東北縦断9日~10日目 ~宮古の山奥で一人で暮らす”ひでじい”に会いに~
こたつに入って酒を飲みながら浅見さんと僕は、眠くなるまでの数時間大いに語った。
いくつかの話題の中で特に僕の心を引き付けたのが、守人の話であった。
今はもうないのだが・・・浅見さんの住む早稲谷という集落から、うんと離れた山のその稜線上に、数年前まで家が一軒建っていた。そこの家には4人の親子夫婦が暮らしていた。
雪が降る、寒いある冬の夜のことであった。その家が火事になった。
火に気が付いた子夫婦は慌てて家を飛び出した。しかし年をとった親夫婦は逃げ遅れ、家に取り残されてしまった。冷たい雪が舞う夜に、火は衰えることなくますますその強さを増していった。先に逃げた子夫婦の旦那は、親を助けるために燃え盛る火の中に戻って行った。妻は集落の人々の助けを求めに、山を降りた。だが腰の高さほどある深い雪が行く手を阻み、中々進めない。それでも何とか集落に辿り着いた。村人は事情を聞いて直ぐに消防隊を結し、山道を登って燃える家に向かっていった。雪は深く、消防車は中々進めない。皆で雪をかき分ける。悪戦苦闘の末、何とか家に辿り着くも、時すでに遅し。家はもう既に全焼してしまっていた。浅見さんは聞いた。「なんで人里離れたあんな不便な所に、家があるのだ」と。村人は言った。昔、あの家の屋根裏を見せてもらった時に、そこには弓矢や槍が沢山隠してあったんだ・・・あの家族は、守人の末裔だったんじゃないか。人里離れた不便な場所、見晴らしの良い山の稜線上に建っていたのも、そこが敵の襲撃を阻止する適地だったからであろうか。
夜もすっかり更けた頃、浅見さんはこたつに入ったままグーグー眠ってしまった。
僕は電気を消し、こたつに半身を入れ、座布団を枕代わりにして横たわった。
時間は12時を過ぎていた。今日はもう除雪車の轟音に妨げらることなく寝れるだろう。
僕は目を閉じて、幸せに溢れた世界に旅立とうした。
その時だった。今まで静かにしていた2匹の猫達が、まるでこの時を待ってましたと言わんばかりに、暗闇の中ガサゴソと動き回り始めた。
2日前にこの家に来たばかりの子猫の目には、何もかもが新鮮に映ったのであろう。
好奇心と冒険心に富む子猫は、寝不足で苦しむ僕のことなど気に留めることなく部屋中をやたらめったら駆け巡った。もう一匹の猫も子猫に共鳴してか、走り回った。
居間の小さな限られた空間は、彼らの燃え滾る興奮を鎮めるのには少々狭すぎるのかもしれない。彼らは何度も棚の上から果敢にジャンプし、そのたびに乗っていた書類や物がバサバサバサーと雪崩落ちた。畳に爪をひっかけてカサカサカサッと音をたてて走っては突然止まり、空き段ボールの中に飛び込んだりした。
彼らは鎮まることなく、ひたすら走り回った。
こうして猫達の発する音にやられてしまい、結局この日僕は一睡もできなった。
猫の暴れる音などで寝れぬとはなんと神経質な体質なのだろうか・・・
早朝3時過ぎ、浅見さんと僕は起床して暗い夜道を山都駅へ車で向かった。
雪が猛然と降っていた。暗いうえに吹き荒れる雪で、視界が非常に悪い。
間もなく僕は猛烈な眠気により、意識が半分ぶっ飛んだ。
隣で運転する浅見さんが時折話しかけてくるのだが、それを聞き取ってなんといっているのか判断することが出来ず、僕は全く見当違いの訳分からぬ返答をしていたことと思う。
駅のホームには雪が厚く降り積もっていた。
僕らの他に2人の男性が加わり、まだ暗い夜明け前の凍てつくさ寒さの中、雪かきをした。
終わると、車に乗り込み、隣の荻野駅へ移動して雪をかく。
再び山都駅へ戻ると、かいたはずの雪が高く積もっていた。そしてまた雪をかく。
これまでの道中、沢山の方々に親切にしてもらったので、この雪かきは福島県への恩返しであった。
昼過ぎ、浅見さんと空っぽの胃袋を腹に抱え、茶房”千”の扉を潜った。
秋庭さんが自家製手打ちうどん”カレーうむどん”をご馳走してくれた。
うむどんを食べながら、秋庭さんと浅見さんは、ここから10キロ程離れた山間に宮古という部落があり、そこで暮らしているある爺さんの話を聞かせてくれた。
その爺さんは”ひでじい”と呼ばれ、人里離れた山奥に1人で住んでいるのだそうだ。
物知りで癖のある面白い爺さんで、会って話をすればきっと貴重な話を沢山してくれるよ、と、そう言うのだ。
それを聞いて僕の気持ちは”山奥に1人で暮らす、ひでじい”に向いてしまった。
「会いたい?それじゃあ電話してみるね!」秋庭さんはそう言って、ひでじいに電話した。
浅見さんの車に乗せられて、僕は茶房”千”を去った。雪は猛然と降り続けていた。町を抜けて山へと通じる道へ入ると、民家は直ぐに消えていった。小高い山に囲まれた雪道を暫く走ると、古民家が幾つか立ち並ぶ小さな集落・宮古が現れ、そこからさらに山の上へと通じる道を走っていく。雪が道路を厚く覆っていた。積もった雪に阻まれて、今にも車が動かなくなってしまいそうだ。
「これは早く帰らないと、帰れなくなるな」浅見さんが体を前方に屈め、注意深く前に目を凝らしながら言った。雪蹴散らしながら暫く走ると、山の中腹に積もり続けた深い雪に半ば埋もれて、家がポツポツと3件ほど現れた。道路に面した家の窓から爺さんが顔を覗かせていた。
「よく来た!さぁ入れ入れ!!」
家の中は暗く、居間に入ると、茶菓子や菓子袋・箱、ジュースに缶コーヒー等雑多なもので溢れかえっているテーブルの前にひでじいがいた。
顔には大きな青黒いあざが付いていた。
「えっひでじい、その顔のあざは?」浅見さんが言った。
「階段で転んで打っちゃったんだよ」ひでじいはあざを擦りながら言った。
外の吹き荒れる雪は止む気配を全く見せず、どんどん降り積もっていた。
暫く3人で話した後、浅見さんは「じゃ、またな!」と僕に言って帰っていった。
家には僕とひでじいの2人になった。
急に静まり返り、僕はあたりを見渡して壁に掛かっている時計を眺めた。
壊れているのか、針は7時を刺している。
「あぁ、あの時計は9時間遅れてるのよ、だから今は4時くらいじゃないかね」ひでじいが言った。「秒針の動きをちょっと見てみな」
そう言われて僕は秒針を見た。
針はチクチクチクとぎこちなく少しずつ上昇していき、12を回って1を越えた瞬間、ストンッと一気に6まで落ちていった。
「ほら見たか今の!!?ほんと、どうしようもない時計だ、もう何年もあの状態なのよ」ひでじいが声をあげて笑った。
秒針は6から動かず、チッチッチッと小刻みに震え、暫くすると再び上昇を始めた。
9時間遅れている時計を初めて見た。
ひでじいは、本当に山の中で一人で暮らしていた。
冬になれば雪が深く積もり、外に出ることは出来なくなる。
そうなれば家の中でじっとしているしかない。
奥さんは他界し、話し相手もいなければ猫や犬もいない。
そんな中に突然現れた流れ弾の様な僕に、ひでじいは言った。
「まだまだこれから旅は長いんだろう。ここで疲れを全部とって行きなさい、好きなだけいてもいいから」と。
この日9時ごろ眠りにつき、3日ぶりの十分な睡眠をとることが出来、体力も回復した。
翌朝6時半ごろに起床した。ひでじいは言った。「もう起きたのかい!?まだ寝てなさい」と。
しかし昔からどうしても遅くまで寝ていられない体質で、一度起きてしまったからには再び眠ることなど出来やしない。
ひでじいと一緒に家の周りの雪をかいた。
雪は止むことなく、嵐の様に吹雪いていた。
「酷い天気だ。この雪じゃ駄目だ、出発出来んな、今日もここで寝ていけ」ひでじいにそう言われてもう一泊させてもらうことにした。
宮古の地は標高が高いため、米作に向いてない。
そのため昔から人々は米の代わりに蕎麦を作って食べていた。
そんなこともあり、宮古の集落の家はほとんどが蕎麦屋を営んでいる。
90歳を越え、体が思うように動かなくなってしまった今ではもうやっていないのだが、ひでじいも2年前まで蕎麦屋を営んでいた。
そんなひでじいが言った。「古いそば粉があるんだが、蕎麦食わんか?」
古いそば粉?どんなそば粉なんだろうか、古いそば粉とは・・・。それに現在は引退し、今ではもう食べられないひでじいの蕎麦を僕は食べてみたくなった。
「食べます!!」僕は言った。
”苦労の蕎麦”
「よし、それじゃあ打ってやる!!久しぶりの蕎麦打ちだ!」そう言ってひでじいは居間を出て、曲がった腰で調理場へとヨタヨタと歩いて行った。僕はその後に続き、どのように蕎麦が出来るのか見ることにした。
「何処だ何処だ、どこにしまったかな・・・」ひでじいはそう呟きながら冷蔵庫の中をガサガサとあさり、そば粉が入ったビニール袋を奥の方から取り出した。
それを床に置いた大きなこね鉢にあけて、ヤカンからボジョジョジョジョ・・・・と熱湯を注ぎ入れた。そしてそば粉を慣れた手つきでこね始めた。
こね始めてすぐに、コヒュー…コヒュー…ヒュー…と苦しそうな息遣いが聞こえてきた。
その姿を見て僕は申し訳ない気持ちになった。あまりにも息切れが苦しそうなのだ。しかしひでじいは切れる息の中、言った。「はぁ・・・はぁ、今に見てな、美味い蕎麦を作ってやるから」
その時だった。
「あっ!!!しまった!」突然ひでじいが声を上げた。「腕時計外し忘れたっ」
見ると細い左腕に、小さな腕時計が付いている。
ひでじいは白い粉にまみれた右手で、カチャカチャと腕時計を外しにかかる。
カチャカチャカチャ・・・腕時計はその細い腕にしっかりとしがみ付き、なかなか外れないようで、次第にひでじいは慌て始めた。「あ、くそうっくそう!蕎麦が冷めちゃう」
ようやく腕時計は外れて、再びこね始めるも、ああぁ・・・冷めちゃった・・・と落胆した。
それに追い打ちをかけるように、再び不運が続いた。
何の前触れもなく突然辺りが真っ暗になった。僕らのいた調理場の電気が消えたのだ。
「えっ!電気が消えた?なんだどうした!!」ひでじいがいった。
停電かな・・・僕はそう思ったのだが、居間の電気はついており、調理場の電気だけが消えていることが分かった・
「暗い、見えない!!」暗闇の中、ひでじいが叫んだ。「なんだ、なんで電気が消えた!!?」
暫くして電気は回復し、元の明るさに戻った。ひでじいは、あぁぁ蕎麦がすっかり冷めちゃったよ・・・と先ほどよりも落胆していた。
なんとかこねあげて、板の上に置き、うち粉を振りかけてめん棒で広げて切っていく。
「蕎麦がボロボロだ、見てみな端を!ひび割れてるだろ、これじゃあ駄目だ、これじゃ美味い蕎麦は出来んよ。すまんなぁ」ひでじいはそう言いつつも伸ばして切っていく。
「あともう少しで出来上がるから、おわんと箸を用意して、居間で待っててくれ」
僕は居間で待った。
すると突然、調理場から叫び声が聞こえてきた。
「うるさい、うるさい、黙れ!!」と。
何事かと見に行くと、廊下も調理場も真っ白い湯気で充満していた。その中でなにやら甲高い警報がビービービーと鳴り、火事です火事です避難してください、と機械音が声を発している。
見ると、ひでじいが大きな鍋で蕎麦を茹でていたのだ。どうやらその湯気に火災報知器が反応してしまったようだった。
ひでじいはその鳴りやまない警報機を罵倒していた。うるさい、火事じゃない、黙れ黙れ!!と。
「ぼそぼそで美味くねぇや。これは蕎麦っていわねぇ。すまんな」そういって出来上がった蕎麦。
しかし、息を切らしてこね、時計を外し忘れて、電気が消え、最後に火災報知器まで鳴り響いて出来た蕎麦、そんな苦労の末に出来上がった蕎麦が美味しくないはずがないだろう!!!!!ひでじいの心のこもった蕎麦は僕の体の一部になり、これから先、まだまだ元気に旅が続けられることだろう。